たくろうの赤木裕さんの学歴は光泉高校・京都産業大学卒になります。
小学校から高校まで野球漬けの日々を過ごし、高校3年の春には強豪校でベンチ入りを果たします。
ただ、監督の勧めで高校3年の春の大会後に野球部のマネージャーになりました。
大学では野球サークルを立ち上げ、そこのマネージャーと付き合い、チームでも4番を打つなど学生生活を楽しんでいました。
ただ、彼女が同サークルの他の部員と仲良くなってしまい、彼女とは別れてしまいました。
当ブログでは、赤木裕さんの学生時代について書きました。
たくろう・赤木裕の学歴|高校は光泉で大学は京都産業出身!
赤木裕さんの学歴ですが
となります。
赤木裕さんの出身中学の1学年上に林遣都さん・1つ下に元モーニング娘。の光井愛佳さん・卒業生に吉本新喜劇の末成映薫さんがいます。
他にも赤木の中学には、1つ上の学年に俳優の林遣都がおり、1つ下の学年には元モーニング娘。の光井愛佳が。さらに卒業生には吉本新喜劇の末成映薫(本名・旧芸名は末成由美)がいるなど、滋賀県の公立高校の中でも有名人を多く輩出するすごい中学校だったと語り、周囲を驚かせた。
そんな赤木裕さんの学生時代を見て行きたいと思います。
小学校の時に漫才を行う
お笑いは一般的な感じで好きで、「エンタの神様」を見て笑ってる感じでした。
小学校6年時に文化祭で漫才をしました。
野球部の仲良しの人に誘われた事で、文化祭のお笑い班に入りました。
ただ、ネタを書いた事がなかったので困ってたら、先生が同級生全員に宿題でネタを考えて来るように言って、そのネタを赤木裕さん達が採用・不採用を決めて行き、それを元に漫才を行います。
ネタはうけましたが、お笑いには目覚めずに野球に没頭する日々でした。
当時の漫才について赤木裕さんは
「今、何年?」って聞かれて西暦で答えるってやりとりだけは覚えてますけど、そこだけ言うてもワケわからないですね(笑)。
元々、お笑いに対しては“フツー”だったし、表に出るとか積極的に手を挙げるタイプではなかったし、そのギャップもあったんじゃないでしょうか。
赤木裕さんは小学校から高校まで野球一筋の生活を送っていましたが、ずっとベンチウォーマーだったとの事です。
高校3年時から野球部のマネージャーを務める
赤木裕さんは公立高校の受験に合格できなかったので、光泉カトリック高校に進学します。
この高校はスポーツに力を入れてて、野球部も中学から硬式をしてスポーツ推薦の人達ばかりだったので、中学の軟式野球部で補欠だった赤木裕さんは上手くない方で目立ってたそうです。
そんな時に監督からマネージャーを勧められ、急に言われた事でテンパり「はい」と答えてしまうも、その後はマネージャーになる話をうやむやにしながら練習に参加する日々を送りました。
一線を画しすぎた僕は監督から「マネージャーになったらどうや?」と勧められました。バッティングマシンでボールが当たった瞬間に僕の握っていたバットが吹き飛んでいった直後の事でした。
僕は急な事でテンパってしまい、本当はマネージャーになる気なんてないのに、大きい声で「はい!」と返事をしてしまいました。間違えた!ヤバイ!このままではマネージャーになってしまう!と思ったので監督が次の言葉を出す前に「失礼します!」と言って、走って練習に戻りました。
なかったことにしようと思って次の日も当たり前の様に練習に参加しましたが、やっぱり監督に「あれ?マネージャーやるんちゃうかったんか?」と言われました。僕は昨日「はい!」と返事した記憶が確実にあるので、また大きい声で「はい言いました!失礼します!!」と言って走って練習に戻りました。
次の日も次の日も同じような事が毎日続きました。1回だけ間違えて言った「はい!」でこんな事になるとは思いませんでした。マネージャーになると毎日言うやつが平気な顔で毎日練習に参加してるので監督も意味わからなかったと思います。
マネージャーの話をうやむやにし続け高校3年生までになった時に、レギュラーメンバーが自主練中にサッカーをやってた事がバレてしまい練習試合に出る事が出来ずに、大幅な人手不足になってたので、赤木裕さんが練習試合に代打で出場をし、ヒットを打ちます。
練習試合で11打数5安打の成績を残したので、3年の春の大会で初めてベンチ入りメンバーになりました。
監督はこの事について
打とうとするから打てない、試合に出ようとするから出れないんや。
と言ってて、現在でも赤木裕さんはこの考え方を大切にしています。
ただ、この春の大会直後に監督に
これが最後や、マネージャーなってくれ。
と言われた事で気持ちが折れて、マネージャーになりました。
マネージャーになった事でプロ野球選手の夢を諦めましたが、この事で「今に見てろ」と一発逆転を狙うきっかけになったそうです。
大学時代に草野球サークルを立ち上げる
赤木裕さんは大学では草野球サークル「ディボーションズ」を立ち上げ、初心者を多く集め、赤木裕さんは4番でキャッチャーを務めていました。
そして、そのサークルのマネージャーと付き合いました。
サークル活動はみんな仲良しで居心地が良く、楽しかったそうですが、自分がお山の大将の事は自覚してたそうです。
当時の彼女は同じサークルの人と仲良くなってしまい別れました。
就活時にお笑いに進む事を決める
就活時に自身のやりたい事が分からなくなりました。
当時は、警備員やコンビニのバイトをしてたけど、全く仕事が出来なかったので、怒られてばかりだったので、「これは就職をしても上手くいかない」と思い、自分の長所と消去法でお笑いの道に進みます。
さらに、元々いじられる人だったので、人生で一発逆転を狙うならお笑いなら可能性があると思った事もお笑いの道に進む事を決めました。
大学3年時には地元の人と漫才コンビを組み、ライブハウスに出演したりしていました。

まとめ
赤木裕さんは小学校6年時に文化祭で漫才を行いウケたそうです。
小学校から高校までずっと野球漬けの日々でした。
高校の野球部は強豪で、中学の軟式野球部で補欠だった赤木裕さんは試合に出れない日々が続きます。
高校3年の練習試合で代打で出場しヒットを放ち、練習試合で11打数5安打の成績を収め、春の大会で始めてベンチ入りをしました。
ただ、春の大会後に監督からマネージャーを勧められた事で、その後はマネージャーを務めています。
大学時代は草野球サークルを立ち上げ、そこのマネージャーと付き合うなど充実した日々を送っていましたが、彼女が同サークルの部員と仲良くなってしまって、彼女とは別れる事になります。
就活時に自身のやりたい事が分からなくなり、自分の長所と消去法でお笑いの道に進む事を決めます。
赤木裕さんの学生時代は野球漬けの日々でしたが、中々努力が報われない日々を過ごしてたみたいですね。
監督からマネージャーを勧められた時にはショックだったでしょうね。
ただ、その悔しい想いの日々が今の芸人としての頑張りに繋がってるのでしょうね。
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